映画『シン・仮面ライダー』ネタバレなし感想,庵野秀明の記号を詰め込んだ怪作

シン仮面ライダー

庵野秀明監督の最新映画『シン・仮面ライダー』を見てきた。嫌いではない。むしろ好き。だけど面白いか?と言われれば微妙。

本作の感想と、構造主義哲学の記号の観点からなぜ本作が一般受けしないのか解説していく。

シン・仮面ライダー感想まとめ

自分の中での評価すらフワフワする怪作である。

結論からいうと、庵野節がすごすぎて絶対に一般受けはしない作品。ごく一部の人には刺さるかもしれないが、1本の映画としてはストーリーが飛び飛びで感情移入が難しい

庵野監督がシン・エヴァンゲリオン制作のドキュメンタリーで言っていたように、全体的にアングルにこだわり抜かれた映像が第一優先の映画だ。

カメラだけでなく、iPhoneやGoproまで十台ほど導入して撮影したらしく、さまざまな角度からの独特なアングルは必見。

ただ庵野監督が好きな構図の絵を優先させたからか、キャラクターの感情を積み重ねるような描写が少なく、感情移入する前にいろんなキャラが死んでいく。

エヴァなど庵野作品が好きな人や仮面ライダーTVシリーズ石ノ森章太郎の原作の知識まである人なら、映像の構図やオマージュからキャラクターの感情を記号的に読み取れるつくりにはなっていると思う。

逆にいうと今作が庵野作品や仮面ライダー初見の人にとってはキツいかもしれない。 庵野監督がやりたいことをやった結果、芸術的だけど人を選別する怪作が出来上がってしまった。

シン・ユニバースは、シン・ゴジラ、シン・エヴァンゲリオン劇場版、シン・ウルトラマンを経て、シン・仮面ライダーで4作目だが、1番一般受けは難しい作風となった。

いっそのこと上映時間を2時間半ほどにして、途中経過のシーンをもっと組み込んだ方が良かったのでは? 別のブログには『シン・仮面ライダー』についてかなり詳細に解説をまとめたのでよろしければそちらもどうぞ↓

cinemag-eiga.com

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記号の観点から『シン・仮面ライダー』を解説

構造主義哲学などではよく記号という言葉が出てくる。

(アニメキャラについてもよく記号的なキャラ!という使われ方をすると思う)

記号=シニフィアン(言葉、音、画像)+シニフィエ(意味するもの)という図式がある。

まあこの図式は結構難しいので頭の片隅に留めておいて、映像において記号を使う場合はもっとラフに、映像全体・構図=記号として、それが何を意味するか?考えてみるといい。

『シン・仮面ライダー』において記号を使う場合、例えば緑川ルリ子を斜め上からアップで写した映像は、「女性を見下ろす抑圧」の意味が見出せる。

シン仮面ライダーで浜辺美波が演じる緑川ルリ子

しかしここでエヴァンゲリオンを知っている人なら、構図もルリ子の髪型も綾波レイっぽい…と思うだろう。意識的にしろ無意識的にしろ綾波を想起した時点で、この映画の外側から意味が加わるわけだ。

すると「女性を見下ろす抑圧」の意味を超えて「綾波レイのように組織に利用されてきた可哀想な女性」という解釈に変化する

本作にはこのようなシーンが多くある。『シン・仮面ライダー』には庵野監督の過去作や仮面ライダーTVシリーズを知っていれば解釈が変わってくるシーンが多数あり、記号的な鑑賞を突きつけられる。

過去作の知識があれば短いカットですぐ感情移入できるし、逆になければ共感するのが非常に難しい作りだ。

庵野秀明は意図してこのような作りにしたのだと思うが、もしかすると編集を繰り返すうちに記号的なシーンだけが残ってしまったのかもしれない。

もちろん制作陣は短いカットに深い意味が込められていると気づいた状態だが、初めて映画をみる観客はすぐには気づけない。もしかするとそんな意識の乖離があったのかもしれない。

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