映画のメタファー考察の賛否!見る側の自由だろ…

重層的なメッセージを孕んだジョーダン・ピール監督の映画『NOPE』が公開され、SNS上で「視聴者が勝手にメタファーまで推測して拡大考察する必要はない」みたいな意見がまたチラホラ出てきた。

cinemag-eiga.com

私の結論を述べると「メタファーを考察しようが、確実性のないものは語らないというスタンスであろうが完全に見る側の自由」だ。

詩や絵画についてと一緒で、別にどんな突飛なメタファー考察でも、発信するのは個人の自由。たとえこじつけっぽかったとしても。

まず、誰かが劇中の描写を暗喩として受け取って意見として発信した場合、それについて「明らかに拡大解釈。私はそうは思わない」とか反論を言うまではまったく問題ないと思う。

ただ「〇〇って〇〇の暗喩だよね。面白いね」と発信する権利まで奪う資格はない

映画について不確実なメタファー不要と言い切ってしまうと、発信して楽しむ自由に引っ掛かるので少し言い過ぎな気がする。

そもそもメタファーの確実・不確実は理論的に分けるのは不可能。統計・感覚的に考察に重み付けができるに過ぎない。

さらに、メタファー考察と感想も不可分(関連し合っている)なので、他人のメタファー解釈に云々いう場合、他人の感想にとやかく口出しするのと同じ気もする。

他人の感想に文句をつけるのが絶対ダメとは言えないが、個人的に感想は受けいれてあげるべきだと思う。

「拡大解釈して勝手にメタファーを考察する必要はない」とわざわざ発信する意図はなんだろう。
考察が気に食わない内容だったらスルーすればいいだけのところを、わざわざ「不確実なメタファーは不要」と反論している。

つまり反論しつつ、心のなかで大なり小なり気になっているということ。

相手の立場に立って考えるならこういう意見の人は、「自分がこういう作品だと感じていたのに、他の人の考察が入って影響されるのは嫌だ」と考えているのかもしれない。

もしくは、「自分と違うその意見が解釈の中心になるのが嫌」なのかも。

そう感じている人は、「所詮だれかの意見だから別に正しいわけでもない」と、自分の意見と他人の意見をハッキリ区別するスキルが必要だと思う。

私的には個人個人がいろんな解釈をして、いろんなメタファーや感想を提示して、意見を言い合って良い物を拾っていくのが、健全かつ建設的なSNS上のやりとりだと思った次第でした。

そのほうが映画好きが増えるんじゃないかと思って、文章を書いてます。

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