映画『ミッキー17』(Mickey 17)を鑑賞。
ポン・ジュノ監督がいろんな意味で衝撃的な問題作をまた一つ世に送り出した。
ラスト結末のネタバレ解説と忖度なしの感想レビュー!
- 人間性を怪物へアウトソーシング
- ミッキーは最下層以下のプロテインバー
- 植民地化への批判
- AI問題とのリンク
- ソースによる非人間化
などを徹底考察していきます!
映画『ミッキー17』あらすじ・作品情報
キャスト↓
ミッキー・バーンズ(ミッキーNo.2〜からNo.18)|cast ロバート・パティンソン(『ライトハウス』『TENET テネット』『THE BATMAN-ザ バットマン-』)
ナーシャ・アジャヤ|cast ナオミ・アッキー(『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』)
ティモ|cast スティーヴン・ユァン(『ウォーキング・デッド』『バーニング劇場版』)
イルファ|cast トニ・コレット(『ナイトメア・アリー』『へレディタリー/継承』)
ケネス・マーシャル|cast マーク・ラファロ(『哀れなるものたち』)
ジェンマ|cast ホリデイ・グレインジャー
カイ・カッツ|cast アナマリア・ヴァルトロメイ
ネタバレなし感想
ポン・ジュノ監督による『パラサイト 半地下の家族』以来の長編作品。
ポン・ジュノ監督の過去作では『スノーピアサー』×『オクジャ(Okja)』といった印象を受けた。
クローンや生命倫理、そして格差の問題をかなりグロテスクに突きつけている一方、テイストはブラックコメディという個性的な作品。
『パラサイト 半地下の家族』と比較すると見る人をかなり選ぶ作品。期待して視聴したが、面白かったとかつまらないではなく、脳みそをミキサーでシェイクされてソースにされるような作品だった。
ぶっちゃけ超面白いからみんな見て!といえるタイプの映画ではない。ただ、私のキャパをオーバーする凄い作品であったことは確か。


映画『ミッキー17』ネタバレ・ラスト結末
移住計画の人々を乗せた宇宙船はニブルヘイムに到着。空気は窒死生の細菌がいた。ミッキーは人体実験を繰り返され、何度もウィルスで死んだ結果ワクチンができる。
その後、ミッキー17は外の探索のミッションについていたが氷の間に落ちて動けなくなった。パイロットの仕事をしているティムがやってくるが、「どうせお前は死んでも生き返るから」と見捨てられる。
ミッキー17の前に星にもとからいた生物・クリーパーたちが現れる。巨大なママクリーパーはミッキー17を地表に引き上げてくれた。助けてくれたのだ。
ミッキー17は基地に戻り、ナーシャと暮らしている部屋へ。そこにいたのはミッキー18だった。17は死んだと思われ、新しいミッキーがコピーされていたのだった。
同じ人間がコピーされて複数いると罪に問われて2人とも殺される。過去にクローンの複数生産=マルティプルによる殺人事件があり、マルティプルは大罪となっていたからだ。
過激な性格のミッキー18が17を殺そうとする。ミッキー18はティモも殺そうとする。
ミッキー17はケネスの夕食に招待されて人工肉を食わされて吐きまくる。カイが介抱してくれた。ミッキーはカイと寝そうな雰囲気になるが、自分にはナーシャがいると思い直す。
ミッキーが2人いることを知ったナーシャは3Pを持ちかける。ミッキーが2人いると秘密を知ったカイは、1人私によこせと言った。
その後、ミッキーは2人いるのがバレて兵士たちに捕まる。
ケネスは基地内にやってきたベイビークリーパーを殺した。
ママクリーパーを筆頭に、無数のクリーパーが基地を囲む。
ミッキー17と18は翻訳機を持って外に出てママクリーパーと対話。ママクリーパーは「囚われているもう1匹のベイビークリーパーを解放しないと人間たちを超音波で皆殺しにする」と言う。
ミッキー17はナーシャにサインを送り、ケネスに囚われているベイビークリーパーを連れて外へ出てきてもらった。
ミッキー18はママクリーパーを殺しにやってきたケネスと一緒に自爆した。
半年後、委員会メンバーに上り詰めたナーシャはエクスペンダブル(使い捨て人間)の廃止を宣言。
ミッキーはクリーパーママと会話をし、共存する道を模索する。
映画『ミッキー17』終わり
映画『ミッキー17』考察まとめ
人間性を怪物(クリーパー)へアウトソーシング
映画『ミッキー17』で1番興味深かったのが、人間が本来持っている人間性がすべて怪物・クリーパーにアウトソーシング(外部委託)されていたところ。
登場人物たちはみんな人間性が欠落している。ミッキー17は殺されて生き返らせることを受け入れているし、ナーシャもどこかぶっ飛んでいる。その他のミッキー18、ティモ、ケネスとイルファ、科学者たちも“人間性が不在”である。
いっぽうでママクリーパーは死にそうなミッキー17を助けた。子供を奪われても基地を攻撃せずに対話をする姿勢を示すなど、本作に出てくる人間よりよほど人間的である。
ポン・ジュノ監督は、『グエムル』『母なる証明』『スノーピアサー』『パラサイト 半地下の家族』などで親子の絆を描き続けてきた。
本作では親子の絆を地球外生命体へアウトソーシングし、人間の非人間性を浮き彫りにしていたと感じた。
アメリカの植民地化や侵略を批判
ケネスがトランプ大統領っぽかったこともあり、惑星ニブルヘイムに移住してきた人類とクリーパーの関係=アメリカ大陸に移住してきた白人とネイティブ・アメリカンの関係に見えた。
アメリカ合衆国はネイティブ・アメリカンの居住区を奪って建国された。その歴史のメタファーとして『ミッキー17』を見ることもできる。
クリーパーから見れば、宇宙からやってきたエイリアンに虐殺されそうになるのだからたまったものじゃない。
ミッキーとナーシャたちはケネスから実権を奪い、知的生命体であるクリーパーを一方的に支配することはなかった。そこが救い。
ミッキー=最下層以下のプロテインバー
ミッキーのクローンは、焼却炉に放り込まれたゴミや排泄物などを材料にして作られる。
『スノーピアサー』で下層階級の人たちの食料になっていたプロテインバーを思い出した。プロテインバーの材料はゴキブリだった。
ミッキーの存在=プロテインバーのようなものだと考える。
ゴミから創造され、みんなの食い物(実験体)にされている最下層以下の存在=ミッキーなのだ。(『パラサイト 半地下の家族』で言うとリスペクトおじさんのポジションに近いかも)
ミッキーはママクリーパーが自分を食わないと知ると、助けられたにも関わらず「俺は美味しいぞ!」と叫んだ。奴隷根性を超えて食糧(食われるもの)としてのプライドを持っているのが悲しい(けど笑える)。
ジョーダン・ピールの映画『Us/アス』も“ダブル”が不幸を被っているという設定だったが、ミッキーも上級国民が幸せになるために不幸をこうむらなければならない下層階級の象徴だろう。
『ミッキー17』は権力者によって最下層の人間が社会を回すための実験道具にされている風刺画のようだった。
またミッキー17と18でどちらが生き残るか戦う最下層同士のデスマッチは、被支配階級同士で争いが起きる現実社会の暗喩に思えた。
クローンは本人なのか?AIの問題
本作で表層的に問われていたのは、クローンは本人なのか?人権があるのか?などの問題。
人間のプリントアウトが禁止されたラスト結末から「クローンも本人であるし、人権もある」という帰結なのだと考えた。
ナーシャによると、ミッキーはコピーされる度に性格に違いがあるという(優柔不断なミッキーがいたなど)。
ということはミッキー17もオリジナルのミッキー・バーンズとは言えない。コピーなのだ。
過激な性格のハバネロミッキーことNo.18もオリジナルでないことは明らか。
考え方を変えれば、それぞれのコピーが個性を持っているのが興味深い。
コピーにもオリジナリティ(オリジナルの性格)が付与されるということ。このパラドックスが映画『ミッキー17』からの深い学びだろう。
そしてこの問題や考え方は生成AIによるコンテンツや、ネット上の情報のコピーにも応用できると感じた。
ミッキー17の例からすると、複製されたものやAIによるコンテンツには価値がないとは言えずオリジナリティすら持ちうるが、そもそも複製すること自体が道義に反している…という解釈になるだろう。
もちろん人間と他のものを単純に比較することはできないが、ミッキー17を通じてさまざまな思考実験ができるのが興味深い。
ソースの意味、ミッキーとベイビークリーパー
イルファ(トニ・コレット)は究極のソースを作り続けている。
ベイビークリーパーの尻尾を切ってソースの材料にするシーンは、“命ではなく肉”としか見ていない証明だ。
ケネスもミッキー17に対して「肉の塊…」と言い放つ。
イルファやケネスから見れば、ベイビークリーパーもミッキーも“命ではなく肉”なのだ。
生命体扱いすらしない究極の差別だと感じた。
ポン・ジュノ監督が『オクジャ(Okja)』で描いた“食用ブタの尊厳を無視していいのか”という問いかけと通底している。
映画『ミッキー17』感想ネタバレ:統一感がない
良かった点
人体実験のために何度もグロテスクな方法で殺され、蘇生させられるミッキー。この設定をシュールなコメディで突きつけたのが凄い(シリアスなテイストだと見てられないほど痛々しいからかもしれないが)。
ミッキーが2人いるとなった時点で恋人のナーシャが3Pしようか..的なノリになったシーンが笑った。さらにカイが「1人ちょうだい!」と言うシーンで大爆笑。不謹慎すぎる。
ミッキーは生きたまま焼却炉に落とされることを容認したり、クリーパーに向かって「新鮮な肉だ、俺は美味しいぞ」と言ったりと、使い捨てながら使い捨てとしての自負を持ってしまっているのが興味深い。
搾取されるのに慣れすぎて、搾取されることにプライドを持ってしまった悲しい性。よく考えると社会にもミッキーみたいな立場の人いるよね。秀逸なキャラ設定だ。
ロバート・パティンソンを滑舌が少し悪い気弱な青年にしたのも英断だったと思う。不条理に振り回される人物としてこの上ないキャラクターだった。(そういえばスノーピアサーのティルダ・スウィントンも滑舌悪かったな)
イルファ(トニ・コレット)も料理のソースを作ることしか頭になく、ベイビークリーパーの尻尾を切り刻むシーンも狂気的だった。何でもソースにするおばさんの表情怖すぎ。さすがトニ・コレット。
クリーパーのデザインも良かった。クロワッサンや風の谷のナウシカの王蟲を参考に作られたらしい。
全体的に、破滅的な核戦争を描きながら終始ふざけていたキューブリックの『博士の異常な愛情』(1964)に近い狂気を感じた。
残念な点
ミッキー17という存在を通して伝えたいことは何だったのかがフワッとしていた。生命倫理や社会階層の問題を鋭く切ったというより、投げっぱなしで答えは出てなかった印象。
生命倫理、格差社会を軸にさまざまに解釈できるテーマだが、どう考えるべきかの方向性がイマイチ伝わってこなかった。
問題提起だけでも良いとは思う。ただそれならストーリーにもう少し面白みを持たせたほうが良かった。『パラサイト 半地下の家族』のようにサスペンス性があっても良かった。
シリアスさとコメディのバランスが取れていた前半はともかく、はちゃめちゃすぎた後半には中弛みを感じた。
ウェス・アンダーソン風の方向性に舵を切っているのだろうか。
全体的にグロいシーンとシュールな笑いでゴリ押ししていた印象。
また、それぞれのシーンの繋がりに必然性が薄かった。悪く言えば風刺コントをそれぞれの場所でやりました的なイメージ。
ケネスが所属していた教団というのも何だろう。トランプを正義の味方と崇めるQアノンのメタファーだろうか。
いずれにせよトランプ批判もいろんな映画で見すぎて斬新さがない。
まとめると映画『ミッキー17』は、ポテンシャルやテーマ性が高い作品であった一方、ストーリーのカタルシスや統一感に欠ける作品だった。
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