映画『国宝』を鑑賞。吉沢亮と横浜流星が歌舞伎の女形として芸を極めつつ、私生活で葛藤するディープかつ強烈な人間ドラマ。歌舞伎のシーンも美しすぎる!
- 悪魔との取引
- ラストシーンの意味:芸術は死の領域へ→父の死、鷺娘、原作から紐解く
- 万菊の言葉の意味
- 春江の心理
- 原作小説との違い
- ネタバレ・ラスト結末
- 忖度なしの感想と評価
これらを徹底考察&解説していきます。

映画『国宝』考察まとめ
悪魔との取引:和製ジョーカー
テーマは血の呪いと芸の呪い。
言葉を選ばなければ、世襲が多い歌舞伎の世界は血の呪いと芸の呪いそのものである。どちらか片方が欠けていてもうまくいかない。
俊介は、歌舞伎を呪い憎みながらも、また歌舞伎に帰ってくる。何年も家を空けたにも関わらずまた歓迎される。これは血の呪縛がなせる技だ。
いっぽう喜久雄の芸に対する執念は常軌を逸していた。子供・綾乃の前で神社の鈴を鳴らしながら「もっと歌舞伎が上手くなるよう悪魔と取引した」と言う喜久雄。
半次郎の名を継いだパレードで追ってくる綾乃の姿が目に入らない喜久雄。
表舞台に立つために利用した彰子のことを全く見ていない喜久雄。
芸への呪いが血の呪いを凌駕したのが喜久雄なのだ(吉沢亮さんの顔が爽やかなので中和されているが、相当にヤバいやつである)。
家を追い出されて宴会周りをしていた喜久雄は、女形によってある男性を本気で魅了させてしまう。その男性は喜久雄が男だと知って怒り、暴行を加えてくる。
殴られたあとの喜久雄は屋上で踊り狂う。ホアキン・フェニックスの映画『ジョーカー』のよう。彰子のことなど目に入らない。
屋上で踊り狂う喜久雄(吉沢亮)
©︎映画「国宝」製作委員会
ホアキン・フェニックス演じるジョーカーが踊るシーン
©︎IMDb
この時に喜久雄と悪魔の取引が成立したように思えた。
喜久雄は神社で鈴を鳴らしながら「歌舞伎が上手くなれば他のものは差し出す」と言った。悪魔との取引によって家族も名声もすべて差し出して、魔性の芸が完成したようなシーンだった。芸に呪われて化け物になることを自ら望んだ男、それが喜久雄なのだ。
『国宝』は、喜久雄も俊介がお互いに血筋や技量で嫉妬し合っていた物語でもある。
それ以上に、芸に呪われた喜久雄と、血に呪われた俊介の人生が2匹の蛇のように絡まり合った物語だ。
ラストの意味:芸は死の領域へ、探し続けていた景色と鷺娘
(※『国宝』原作小説のラストに触れています)
喜久雄が人間国宝に選ばれた後のインタビューで「景色を探し続けている。うまく説明できない」と言っていた。
これは雪が降る夜に父・権五郎が背中の刺青を見せつけながら抗争相手の銃弾に倒れた際の美しい雪風景が目に焼き付いていて、それを探している意味だと考えられる。
そう捉えると、喜久雄も父・権五郎の血を片時も忘れていなかったように思える。
喜久雄は「歌舞伎で完璧な美しさを表現できたとき、父の生き様の片鱗に触れられる」と心の奥底で感じていたのではないか。
そして映画の最終局面で踊ったのは鷺娘。
最後には紙吹雪が降る中で鷺は踊り狂って死んでいく。
ラストの舞台では、喜久雄の心中で紙吹雪の中で踊っている自分の姿と雪の中で鮮血にまみれて死んでいく父・権五郎の姿がピッタリ重なったのだろう。
その瞬間、究極の美である「死」を体現できた。
原作小説だと喜久雄は最後に観客席に降り、歌舞伎座を出て、車に轢かれて死亡したことが示唆される。
映画のラストでも、芸を極めた喜久雄が父の死に自身を重ねて芸術の極地に到達…芸が死の領域に到達したことが表現されていたと考える。
ちなみに喜久雄のモデルは、2012年に人間国宝に選出された坂東玉三郎氏らしい。
(↓坂東玉三郎さんの鷺娘が美しかったので動画を載せておく↓)
ラストシーンの意味:復讐を超えた
半次郎は喜久雄を引き取ったのちに「芸で復讐しろ」と言った。
そして喜久雄が人間国宝になって鷺姫を踊った最後に、この復讐が果たされた。
文字通りの復讐というより、喜久雄は鷺姫の舞台で紙吹雪が降る中で、父・権五郎が死んだ時の風景と自分の芸が重なったことを感じたのだと思った。だから最後に舞台で「美しい」と言った。
自分と父の存在が折り重なった瞬間だ。
芸を極めながらも最後は血に還る…人間の抗えない本質を描いた本当に美しいラストシーンだった。
万菊の発言の真意:美しい顔が邪魔?
万菊は半次郎が養子として連れてきた喜久雄に、「美しいお顔、でも芸をするなら邪魔も邪魔。そのお顔に食われないように」と言っていた。
万菊が喜久雄に自分と同じ匂いを感じていることはわかるが、抽象的で意味がつかみづらい。
終盤で、90歳になった万菊はボロ屋で死を待ちながら、「この部屋には美しいものが何もない」と安堵の言葉を口にしていた。この時に先のセリフの意味まで繋がった気がした。
人間国宝の万菊は美しいものに囲まれた歌舞伎の舞台で常に1番美しく在らなければならなかった。美しいものを見るたびに、自分がそれを超えなければというプレッシャーに苛まれ続けていた。美の呪縛とも言える。
よって「美しいお顔…」は、超えなければならない美がすでに自分の顔にあり続ける喜久雄を憐れむ意味だったと考える。
原作小説では「晴れやかな舞台が終わって物置の隅に置かれても綺麗な顔のままなのは悲劇」という万菊のセリフがある。
舞台で“美”を追及して疲弊したにも関わらず、舞台が終わっても美(顔)から逃れられない…
演じているときとそうでないときの区切りがなくなり、精神が休まる暇がないという意味だと考えられる。
万菊のモデルは人間国宝”の六代目・中村歌右衛門氏らしい。下記の動画は素人目にも凄いものに見えた。
春江の心理
春江(高畑充希)の心情や行動原理も非常に興味深い。
なぜ彼女は喜久雄ではなく俊介を選んだのか?と疑問を持った人もいるだろう。
そこで私の結論を書いておく。
春江は、喜久雄にとっての1番は自分(春江)ではなく歌舞伎だと悟ったから離れていったのだと考える。
万菊が喜久雄の中に“何か異常なもの”を見透かしたように、春江も喜久雄に何か化け物じみたものを感じたのだ(その直感は正しかったといえる)
また、春江は喜久雄にとって歌舞伎の次の2番、俊介も技量で遅れをとって2番手。
春江と俊介が結ばれた理由には、1番になれなかった者同士の共感と憐憫のようなものもあると思った。

『国宝』映画と原作小説の違い比較まとめ
項目 | 原作 | 映画 |
---|---|---|
喜久雄の性格 | 技量を追い求めながらも、人間的で恩を大事にする側面も。 | 芸を極めることが最優先 |
最期 | 人間国宝決定の知らせを受ける前に交通事故死 | 人間国宝に選出され、鷺娘を披露 |
市駒・綾乃との関係 | 関係がずっと続いている(婚姻関係にはない) | 関係が断たれ、娘の綾乃は喜久雄を恨んでいた |
彰子との関係 | 結婚し、最期まで連れ添う | 喜久雄が彰子に捨てられる |
徳次(長崎時代からの喜久雄の付き人) | もう一人の主人公級。喜久雄と深い絆で結ばれている | 大阪に来ない |
母・マツ | 実母ではないが重要な存在。喜久雄の品格に影響 | 映画では冒頭のみの登場 |
喜久雄と辻村との関係 | 父を殺した相手が辻村と知らずに世話になり、後に和解 | 辻村の描写は省かれている |
俊介と父・半次郎 | 出奔した後で半次郎に芸を見せるも 「その程度で戻るな」と言われる |
出奔後に2人は会っていない |
俊介と春江との子(豊生) | 長男が生まれるが、突然死 | 映画では豊生についての言及なし |
ざっくりまとめると、原作での喜久雄は比較的に人間味のある人物として描かれている。
市駒と結婚しなかったのは市駒が結婚を望んでいなかったから。ただ市駒や綾乃とちょくちょく会い、なんとか父としての務めを果たしている。
彰子とは正式に結婚して長年連れ添っている。
対して映画版では喜久雄は芸以外に興味がないように見えた。
市駒たちを捨て、彰子にも愛想を尽かされ、どこか人間的に欠落した人物として描かれている。
原作では、人間味のある喜久雄が最終的に芸術の化身となって死亡したような印象。
逆に映画では、悪魔と契約するような芸狂いが最後に一縷の安寧を見い出したかのような終わり方。
両者ともすごく味わい深かった。
映画『国宝』あらすじネタバレ・ラスト結末
©︎映画「国宝」製作委員会
李相日が吉田修一の小説を実写化するのは『悪人』『怒り』に続いて『国宝』で3回目。
あらすじ
ヤクザの親分の息子・喜久雄は、15歳の頃に抗争によって目の前で父親を殺される。歌舞伎の女形の素養があった喜久雄は花井半二郎(渡辺謙)に引き取られ、歌舞伎役者を志すことになった。
半二郎には喜久雄と同い年の息子・俊介がいた。2人は切磋琢磨しながら芸を磨いていく。学校の帰りには2人で練習し、家に帰ると半次郎に殴られながら稽古を繰り返した。それでも喜久雄は歌舞伎の魅力に取り憑かれていった。
喜久雄は人間国宝の万菊(田中泯)の演舞を見て化け物じみた技量を見て驚かされながらも、いつかは自分も日本一の女形になりたいと夢みる。
喜久雄には芸はあったが守ってくれる血がなかった。俊介は喜久雄の才能に打ちのめされて身を崩していく。2人の人生はすれ違い、そして波乱に満ちてゆく。
芸は血を超えられるのか?運命を分けた「代役」の指名
20歳を超える頃になると喜久雄(吉沢亮)の芸が俊介(横浜流星)の芸を凌駕するようになる。
師匠の半次郎(渡辺謙)が事故で舞台に立てなくなり、急遽代役に指名されたのは息子の俊介ではなく、喜久雄だった。
母・幸子(寺島しのぶ)は憤慨するが、喜久雄は半次郎からの厳しい稽古を受け、見事に「曽根崎心中」を成功させる。
その舞台を見ていた俊介は、喜久雄の才能に圧倒され、自らの限界に絶望して姿を消す。彼を追って、喜久雄の地元時代の恋人・春江(高畑充希)も姿を消す。
血筋の呪縛、芸の孤独、喜久雄と俊介の再会
数年後、半次郎は白虎を襲名。喜久雄は三代目・半次郎を襲名する。
しかしその式で、半次郎(白虎)は倒れ、息子・俊介の名前を呼びながら運ばれたのちに死亡。
喜久雄は半次郎(白虎)が結局は俊介のことが1番大事だったとショックを受ける。
そして半次郎(白虎)の後ろ盾を失った喜久雄は徐々に役を失い、かつて去った俊介が家族を連れて戻ってくる。
地方の旅館で歌舞伎の修行を続けてきた俊介は、父譲りの“血”の力で再び興行の中心に返り咲く。
喜久雄は歌舞伎の名家の娘・彰子(森七菜)と恋仲になり、表舞台への復活をもくろむ。謀略だった。
しかし喜久雄がヤクザの息子であることが露見し、さらに彰子の父親から結婚を反対されて殴られ、彰子は勘当される。
喜久雄は地方回りの宴席で芸を続けるが、芸にしか興味を持たない喜久雄についていけず、彰子も去っていく。
再び交わる運命、芸は血を超えたのか
晩年、死期の近い人間国宝・万菊に呼ばれ、踊りを披露する喜久雄。
喜久雄はその後、俊介に呼ばれ、再び舞台に立つことになる。
俊介は糖尿病で左足を切断していたが、それでも2人は「曽根崎心中」を完遂した。
俊介の死後、喜久雄はその息子・一豊に稽古をつけ、歌舞伎の道を継がせていく。
ラスト:人間国宝となった喜久雄を訪ねてきた娘
やがて月日は流れ、喜久雄は晩年についに人間国宝に選出される。
ある日、舞台の終わりに声をかけてきたのは、かつての芸妓・藤駒(見上愛)との間に生まれた娘・綾乃(瀧内公美)だった。
彼女は写真家となり、「父を恨んでいたけれど、あなたの舞台に惹かれた」と語る。
喜久雄は、人間国宝・万菊がかつて演じた「鷺娘」で大きな喝采を浴び、幕は閉じる。
映画『国宝』終わり
映画『国宝』感想と評価
良かった点:芸の美しさ、狂気を描く
芸の美しさだけでなく、その裏にある狂気をも描き切っていた。
李相日監督らしく本作もすごく濃厚かつ重厚だった。ブログを書いておいてなんだが言葉で解説するのが憚られるような芸術性の高い作品。
ヒューマンドラマとしても素晴らしいけど、人間とはなんたるかを言葉ではなく芸や舞台で伝えてくるコンセプトが美しかった。単に感動するシンプルな人間ドラマの枠には収まりきらない。
吉沢亮と横浜流星のコンビが爽やかだったからか、そこまでドロドロとした雰囲気ではなかったが、実質かなり怖い作品だ。
シンプルに感動するというより、映画『ボヘミアンラプソディ』のように芸術が波瀾万丈な私生活を凌駕するような深いテーマがあった。
(原作者や制作陣の歌舞伎に対するリスペクトはもちろんある)歌舞伎界、ひいては芸能界の実態にも真摯に向きあっていた。
半次郎の後ろ盾がなくなった喜久雄が端役しかもらえず、8年ぶりに帰ってきた俊介がメインを張れる歌舞伎界が怖い。
(実際はどうなのか知らないが)歌舞伎界の血の呪縛の怖さをまざまざと見せつけられた。天皇家や貴族のように血筋が絶対の世界があるようだ。
血筋が芸を凌駕する。そんなことが日常茶飯事なのかもしれない。失踪から帰ってきた跡取り・俊介を愛しい目で見つめる下男・下女たち。その目がなんか怖い。
また、考えてみると主人公の喜久雄が人間的にかなり酷い人物で、安易な共感を排するようだった点も興味深い。
喜久雄は芸妓・藤駒との間に子供を作るが正式に結婚はしていなかった。藤駒も娘も捨てた。
その後で一緒になった彰子の存在を受け止めず、芸ばかり見ていた。人間的には破綻した人物といえる。
喜久雄は15歳の頃に、飲みの席で素人ながらに歌舞伎を披露していたが、それから20年も経って半次郎の後ろ盾を失ってからまた飲みの席で歌舞伎を披露するようになった経緯も切ない。年月も技量も増したにも関わらず、また同じ地点に戻ってくる。芸事の不条理さが表現されていた。
演技面では吉沢亮さんも横浜流星さんも両人とも素晴らしかったが、著名な舞踊家である田中泯さん(人間国宝・万菊)が芸について語るときの説得力が半端なかった。すべてを見透かしたような目の動き、喋り方が怖い。人間国宝レベルの舞踊家・田中泯さんが作品に説得力と深みを与えていたように思える。
ちなみに私には歌舞伎の知識や素養がないので、演目などの細かい知識があった方がより楽しめると思った。
歌舞伎のシーンは圧倒的に美しいとは思いつつも、物語の重要なポイントである喜久雄と俊介の技量の巧緻などが判断できない。
残念な点
残念な点はほぼないが、上映時間が約3時間で若干冗長に感じてしまった。小説でゆっくり読み込むには良い物語なのかもしれないが、映画だとボリューミー。
また映画の形式上仕方ないことなのだが、歌舞伎の舞台で演者の顔をアップにする演出の多用はどうなの?と気になった。私ごときの意見にはなるが、歌舞伎の見せ方や美しさの本質から逸れるのでは?本当に歌舞伎が好きな人からすると邪道に映るかもしれない。
カメラ固定で歌舞伎を見せると映画っぽくなくなるし難しいところではあるけど、もっと引きのシーンが多くてもよかった。
田中泯さんが踊っているシーンで揺れるようなエフェクトをつけるのもどうなの?と思ってしまった。
まとめると、映画『国宝』は安易な人間ドラマを超えて芸術家の生き様を見せつけてくれた良作だった。
あとは自分がもっと歌舞伎の勉強をしておけば良かった。この映画で歌舞伎の美しさに触れたので、少しでも勉強していきたい。

吉田修一の実写映画レビュー↓

李相日監督作品レビュー↓

2025年公開の邦画レビュー↓





作品情報・キャスト
立花喜久雄(花井東一郎)|cast 吉沢亮
大垣俊介(花井半也)|cast 横浜流星(『片思い世界』『正体』『わかっていても』)
福田春江|cast 高畑充希
大垣幸子|cast 寺島しのぶ
彰子|cast 森七菜
竹野|cast 三浦貴大
藤駒|cast 見上愛
喜久雄の少年時代|cast 黒川想矢
俊介の少年時代|cast 越山敬達
立花権五郎|cast 永瀬正敏
梅木|cast 嶋田久作
立花マツ|cast 宮澤エマ
吾妻千五郎|cast 中村鴈治郎
小野川万菊|cast 田中泯
花井半二郎|cast 渡辺謙
コメント
大変素晴らしい評価と解説で、色々納得出来ました。有難うございます。
文中「万菊は半次郎が容姿として連れてきた喜久雄に」で、養子の間違いではと思いました。
名優、沢村貞子さんは顔が良い有望な役者さんを見ると、「顔が良い分、他の人の何倍も努力しないと生き残れない」と言っていたそうです。
甥の津川雅彦にも、草刈正雄にも言っていた。
イケメンという範疇に括られ、容姿の衰えとともに仕事が減る時期があるからでしょうか。