映画『劇場版モノノ怪 唐傘』(Mononoke Movie: Paper Umbrella)を鑑賞。
奥行きを無くしたフラットで美しい映像が堪能できた。
ストーリーは説明が多くなく、抽象的で難しかった印象。
そこで「妖怪・唐傘が出現した理由」、「臭い水の意味と犠牲と循環」、「渇きの本当の意味」、「水の二面性・陰と陽・双子の娘」、「第二章 火鼠について」について徹底考察してみた。
『劇場版モノノ怪 唐傘』あらすじ
大奥に新しく勤めることになった若い女性・アサとカメ。大切なものを井戸に捨てさせられ、さらに御水様の水を飲む奇妙な風習に困惑する2人。
大奥にやってきた薬売りはモノノ怪の気配を感じ取り、内情を探ることにした。
そんな中、モノノ怪によって大奥の女中が殺される事件が発生。薬売りは退魔の剣を抜くために形 真 理を解き明かそうとするが大奥には最悪の秘密が隠されていて…。
唐傘が出現した理由と目的
妖怪・唐傘は麦谷と淡島と歌山を狙った。この3人は大奥のシステムを回している中核である。よって唐傘の目的は大奥の犠牲になっている女中たちの救済だと考えらえる。
大奥は、水と御水様を中心にする犠牲の循環のシステムである。反対に傘は人に寄りそって雨や水から防いでくれる。何かから人を守る庇護の象徴でもある。大奥の水を浴びるように飲んでしまうのではなく、自分の意志でほどほどに飲めというのが唐傘の善としての機能だと考える。
だから北川の情念は唐傘へと変貌したのだろう。水による犠牲のシステムから女中たちを守りたかったのだ。唐傘をなくしてしまった人形は、友人を守ることを忘れてしまった=傘をさしてあげる心や寄り添う心を忘れた北川自身だ。(監督によるとアサの前に現れたのは、この人形が北川に化けたものとのこと)
麦谷がカメの持ち物を投げ捨てるときにかつて自分が投げ捨てた鞠(まり)の映像がさし込まれたことから、唐傘は北川の情念だけでなく、大奥に生きる全ての女中の情念が集合して誕生したと考えることができる。それもあって薬売り=神儀(しんぎ)は退魔の剣「坤(こん)」で傘を斬るときに、すまぬと言ったのだろう。
麦谷と淡島が水を吸われて即身仏のような状態で死んだのは、上に立つ彼女たちの体が他の女中たちから搾取した水から成り立っている(犠牲を享受して生きている)ために、その水の返却を求められたのだろう。
傘が持つ水を防ぐ性質が麦谷と淡島を守ることではなく干からびさせるほうへ機能したのだ。傘は二面性が表現されている。
臭い水を飲む=犠牲を受け入れる=合成の誤謬
井戸には女中の死体などが捨てられており、大奥の女性たちはその水を飲んでいる。水は臭い。
なぜ臭いのか?その理由は、水が女中たちの犠牲を表現しているからだと考える。
水を飲む=誰かの犠牲を受け入れて生きている表現だと思った。そして犠牲=目を背けたくなる臭いものを受け入れることに慣れるための儀式のようにも感じた。
水を飲んでいる女たちは、命を取られてはいないまでも全員が犠牲者である。思い出や情念を捨ててきたのは大奥の女全員だ。
女中たちは自らも犠牲の渦に巻き込まれ、その犠牲から得られた富を水として享受している。だから女中たちの顔がみな渦巻きになっているのだろう。
負の連鎖のようでもあり、それが大奥という社会の正常な姿でもある。
水による犠牲の連鎖と大奥は、全体のために個人が何かを犠牲にしている現代の資本主義社会への風刺とも取れる。大奥の女中たち=私たちなのだ。
ただ、この犠牲と水の循環によって大奥(社会)が成り立っているわけで、一概に悪だともいえないのが『劇場版モノノ怪 唐傘』の深いところだ。
監督が公式に公表している今作のテーマは合成の誤謬(ごうせいのごびゅう、個人などミクロの視点では合理的な行動が、マクロ(全体)の世界では悪い結果を生む事になるという経済用語)。水の儀式で合成の誤謬がうまく表現されていたと感じた。
歌山が女中を井戸に捨てる理由
歌山は自分が大切にしている大奥を守るため、死亡した女中や不要な女中を井戸に捨てているようだ。麦谷は手毬、淡島は万華鏡と大切なものを捨てていたが、歌山にはそのような描写はない。彼女が捨てていたのは大奥の末端にいる女中たちなのだ。
女中は御水様の生贄として必要だったのではないか?続編の火鼠でその事実が明らかになりそうだ。
『唐傘』では歌山の生死が明確でなかったが、続編ではモノノ怪として登場するのかもしれない。
渇きの本当の意味
渇きの本当の意味は、水をいくら飲んでも満ち足りないこと=永遠に欲望を追い続けることだと考える。
水は女中たちの犠牲から成り立つ富の象徴でもある。その水をいくら飲んでも満ち足りない状態。麦谷や淡島はそんな状態だった。
犠牲の水をたくさん飲んでそれにも疑問を持たない魂がぶくぶく太って肥えた状態。唐傘はそんな麦谷や淡島から水を奪い返した。
いっぽう北川は友人を大奥から追い出した時点で、自分も渇いてしまった(欲望のシステムに取り込まれた)…と考え、水が飲めなくなってしまったのだろう。井戸に身を投げたのは自分が捨てたものは何かを再認識するためだと感じた。
過去に捨てた人形を拾うためだけでなく、追い出した友人との関係を再発見したかったのだろう。
水を飲むときに感謝を忘れないのがあるべき姿ではないだろうか。
水の二面性、陰と陽、双子の娘
『劇場版モノノ怪 唐傘』の解釈で1番の鍵となるのは水の二面性(両義性)だと思った。
水は良いものでもあり、悪いものでもある。善と悪、陰と陽の2つの側面があり、一方だけを語ることはできない。
井戸には女中たちの死体があったために水は臭かったが、だからといって「悪しきもの!」と断定することはできない。水がなければ人は“渇いて”しまう。
井戸には死体もあるが、女中たちが捨てた大切なものもあった。悪いものと良いものが混在してバランスを保っているように思えた。
善悪や陰陽のバランスを取るために陰御水様の儀式の儀式があるのだろう。
御水様の儀式をとり行っていた溝呂木北斗には双子の娘・二日月と三日月がいて、儀式で水を配っている。
双子の二日月と三日月はそれぞれ、水が持つ陰と陽の性質を表現しているように思えた。
女中たちの犠牲の象徴である水を飲みすぎるのはよくない。しかし飲まなくては渇いてしまう(友人を追い出してから水を飲めなくなった北川のように)。
本作はそんな答えの出ない問題を突きつけていたようだった。
アサの大切なモノとは? 北川の関係から紐解く
アサとカメの関係は、北川と友人の関係と対になっている。
北川がアサの前に現れたのは、自分と同じように友人に酷い仕打ちをしてほしくないと願っていたからだろう。
最後にはアサはカメを大奥から去らせるが、これは両者納得済みであり、北川が友人を追い出したこととは意味合いがぜんぜん違う。
アサの大切なモノ=カメとの関係だろう。ただアサはカメを捨てたのではなく、2人がそれぞれ陰と陽の道へ進んだということだと思った。
カメは最後まで臭い水を受け入れられなかった。それも正解。アサのように水を受け入れて大奥を取りまとめていく決断もまた正解。そんなことを表現していたように思えた。
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