松山ケンイチが介護福祉士、長澤まさみが老人42人殺害を調べる検事を演じた映画『ロストケア』の感想レビューと、哲学用語・エポケーや、意味の中断といった概念を使っての考察・解説です。
映画『ロストケア』感想レビュー(ネタバレなし)
映画『ロストケア』は非常に重苦しいヒューマンドラマの佳作でした。
老人の殺人犯と検事のそれぞれの正義がぶつかり合う物語ではありません。
シリアスな演技で松山ケンイチと長澤まさみが観客に介護の問題提起をする作品です。
老人たちを殺害した犯人にも、認知症や病気で苦しむ老人や家族の人生を救ってあげるという動機があります。
犯人がやったことは法で考えればもちろん罪にはなりますが、完全に悪なのか?といわれると微妙です。
犯人と検事がお互いを理解し合うという、ある面で煮え切らないラスト結末には好みが分かれるでしょう。
エンタメ性はなく、老人たちを殺した殺人犯が暴かれていく過程もあっさりしており、ミステリーでもありません。
何が正しいのか答えが出ないので、はっきりしない作品が苦手な人はフラストレーションが溜まるかもしれません。
私は、介護の問題点をリアルに突きつけた点で価値がある一方で、映画としては突き抜けた部分がなく、傑作とまではいかないと思いました。
エポケーすべき二項対立
映画『ロストケア』で感じたことは、この世には二項対立で判断できない問題があるということです。
認知症で回復の見込みのない老人の命 VS 自宅介護する家族の人生
どちらが大切か? 論理的に判断することは不可能ですよね。
そこから「エポケーすべき物語」だと思いました。
エポケーとはギリシャ哲学やフッサールの現象学の用語で、断定を中止することです。
つまり「答えはこうだぜ!」と決めつけないことを決めるのです。
エポケー(安易な判断を中止すること)で、より純粋な何かが浮かんでくる!という感じで使います。
『ロストケア』言葉による判断を中止して、それでも頭に浮かんでくる抽象的な何かを鑑賞者それぞれがすくいとるべき作品ではないでしょうか。
意味を中断せよ:ロラン・バルト
映画『ロストケア』を考えるうえで、意味の中断という概念も大切な気がします。
意味の中断とは哲学者のロラン・バルトが日本の俳句に衝撃を受けて思いついた概念です。
日本の俳句や文化は、西洋文化のように意味を断定・強要していないとバルトは説いています。いわば意味の空洞化です。
意味がないものが尊いこともあるという発想はコペルニクス的転回ですよね。
例えば松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」。状況を詠んだこの句にはこういう意味だといえるものがありません。
解釈は無限にできますし、そもそも解釈することが正解なのかもわかりません。
『ロストケア』の物語にも意味の中断の考え方を適用したくなりました。
老人の命、家族の人生、幸せなどの物語に、安易に“こういう意味だ!”と答えを出すことが正解ではない気がします。
あえてゆうならストーリーをそのまま捉え、言語化できない心のイメージに思いを馳せるのが良いかと思います。
映画『ロストケア』のレビュー終わり
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