吉沢亮さん、横浜流星さん、渡辺謙さん出演の映画『国宝』が素晴らしかったので吉田修一さんの原作を読んでみた。
原作小説も傑作!文章で歌舞伎の美しい舞台をこれほどに堪能できるとは!
そこでラストの意味の解釈と考察、映画と原作の結末比較をしてみた。
※原作と映画のネタバレがあります。未読 or 未鑑賞の人はぜひ小説や映画を見てみてください。

原作小説『国宝』ラストは死? 意図を深掘り考察
晩年の喜久雄はある景色を探し求めていた。
どんな景色を?というのは映画でも大きなテーマであり、映画では父親が雪景色の中で男らしく散っていった姿こそが喜久雄の探している景色だと解釈できた。
原作小説を読むとこの解釈の解像度がよりクリアになるし、微妙に異なるニュアンスも付与される。
原作では喜久雄が雪景色の中に父の背中と鮮血を見て、その鮮血が顔にかかった。
また晩年の喜久雄は完璧を超えた芸を身につけ、周囲の役者の技量が追いつかないため、自らの脳内で美しい風景を描き出しす“狂人”となってしまっている。
藤娘を踊った際に喜久雄の芸に幻惑された客が舞台に上がってしまう描写がある。それ以降、喜久雄は芸を極めすぎて“向こう側の美しい世界”が見えるようになってしまった。
その後、喜久雄は辻村(ヤクザの親分だった父の弟分)の死の床で、彼から「俺が父を殺した」と告げられるも、「親父を殺したのはこの俺かもしれない」と不可解な言葉を返して和解。
ラストは阿古屋を演じる舞台で「きれいやなあ」と呟き、そのまま客席に降りて歌舞伎座を出て、車に撥ねられて死亡(死亡したとは直接書かれていないが、状況的に命を落としている可能性が極めて高い)。
これらの描写から喜久雄が探していた景色が父親の死に際だったことは確かで、さらにいうと父の死に際でのその血潮を美しいと感じてしまったことが伺える。
映画版の喜久雄は父の男気の美しさ、最後の立ち姿を追い求めていたように感じられた。
原作だとそれに加えて父の血しぶきに芸術的な何かを…つまり人間の死に対して究極の芸術を見いだしたような描かれ方だった。
喜久雄が親の仇である辻村を許した理由には長年世話になったことだけでなく、10代半ばの自分が父の死に際の血しぶきにカタルシスを感じてしまったことへの負い目もあるのだろう。
神社でした悪魔の契約の最初の犠牲者が父なのではないか(時系列は逆だが)…と喜久雄は考えているのかもしれない。
喜久雄は晩年になって最高の舞台を見せた直後に何かに導かれるように車に轢かれ、歌舞伎の舞台に上がるような錯覚をしながら死亡する。
料亭で父親が死ぬ瞬間を目の当たりにして“死の美しさ”に取り憑かれ、最後には命が散る瞬間の鮮血の美しさをまといつつ歌舞伎を演じようとしたのではないだろうか。
日本一の芸以外何もいらないという悪魔との契約も、喜久雄の死をもって完結した。
ちなみに狂人となった喜久雄が舞台から客席へ降りていく原作ラストのシーンは、ビリー・ワイルダー監督の映画『サンセット大通り』(1950)から着想を得たのでは?と思えた。
語り手は誰なのか?
原作小説は語り口調で進行する。
歌舞伎の口上からヒントを得たようで「〜でございます。〜しておりました。〜いたしましょう」の現代小説では聞きなれない語尾が並ぶ。
小説『国宝』における語り手は誰なのか?
晩年の喜久雄は舞台の最中に天井を見上げ、「あんた誰や?」とポツリとこぼす。これは語り手に向けられた言葉にも見える。
いくつかの解釈があるだろうが、語り手は芸術や歌舞伎の神様。もしくは喜久雄が契約した悪魔だろうと考えられる。

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