『国宝』映画と原作ラストの違いを徹底考察「死に見る芸術」語り手は誰?

4.5

『国宝』の原作

吉沢亮さん、横浜流星さん、渡辺謙さん出演の映画『国宝』が素晴らしかったので吉田修一さんの原作を読んでみた。

原作小説も傑作!文章で歌舞伎の美しい舞台をこれほどに堪能できるとは!

映画と原作は別物として考えた方がいい前提はある。
ただ原作を読んだことで映画版の解釈についてより明瞭になった部分があるのも事実。

そこでラストの意味の解釈、映画と原作小説の違いを解説&考察してみた。

※原作と映画のネタバレがあります。未読 or 未鑑賞の人はぜひ小説や映画を見てみてください。

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『国宝』ラストは死? 意図を深掘り考察

晩年の喜久雄はある景色を探し求めていた。

どんな景色を?というのは映画でも大きなテーマであり、映画では父親が雪景色の中で男らしく散っていった姿こそが喜久雄の探している景色だと解釈できた。

原作小説を読むとこの解釈の解像度がよりクリアになるし、微妙に異なるニュアンスも付与される。

原作では喜久雄が雪景色の中に父の背中と鮮血を見て、その鮮血が顔にかかる。

また晩年の喜久雄は完璧を超えた芸を身につけ、周囲の役者の技量が追いつかないため、自らの脳内で美しい風景を描き出しす“狂人”となってしまっている。

そして喜久雄は辻村(ヤクザの親分だった父の弟分)の死の床で、彼から父を殺したことを告げられるも、「親父を殺したのはこの俺かもしれない」と言葉を返して和解。

ラストは阿古屋を演じる舞台で「きれいやなあ」と呟き、そのまま客席に降りて歌舞伎座を出て、車に撥ねられて死亡。

これらの描写から喜久雄が探していた景色が父親の死に際だったことは確かで、加えて死に際での父の血潮を美しいと感じてしまったことが伺える。

映画版だと父の男気の美しさ、最後の立ち姿を追い求めていたように感じられた。

原作だとそれに加えて血しぶきに芸術的な何かを…つまり人間の死に対して究極の芸術を見いだしたような描かれ方だった。

喜久雄が親の仇である辻村を許した理由には長年世話になったことだけでなく、まだ10代半ばの自分が父の死に際の血飛沫にカタルシスを感じてしまったことへの負い目もあるのだろう。

神社でした悪魔の契約の最初の犠牲者が父なのではないか(時系列は逆だが)…と喜久雄は考えているのかもしれない。

喜久雄は晩年になって最高の舞台を見せた直後に何かに導かれるように車に轢かれ、歌舞伎の舞台に上がるような錯覚をしながら死亡する。

料亭で父親が死ぬ瞬間を目の当たりにして“死の美しさ”に取り憑かれ、最後には命が散る瞬間の鮮血の美しさをまといつつ歌舞伎を演じようとしたのではないだろうか。

日本一の芸以外何もいらないという悪魔との契約も、喜久雄の死をもって完結した。

ちなみに狂人となった喜久雄が舞台から客席へ降りていくシーンは、ビリー・ワイルダー監督の映画『サンセット大通り』(1950)から着想を得たのでは?と思えた。

語り手は誰なのか?

原作小説は語り口調で進行する。

歌舞伎の口上からヒントを得たようで「〜でございます。〜しておりました。〜いたしましょう」の現代小説では聞きなれない語尾が並ぶ。

小説『国宝』における語り手は誰なのか?

晩年の喜久雄は舞台の最中に天井を見上げ、「あんた誰や?」とポツリとこぼす。これは語り手に向けられた言葉にも見える。

いくつかの解釈があるだろうが、語り手は芸術や歌舞伎の神様。もしくは喜久雄が契約した悪魔だろうと考えられる。

『国宝』映画と原作小説の違い比較表

項目 原作 映画
喜久雄の性格 技量を追い求めながらも、人間的で恩を大事にする側面も。 芸を極めることが最優先
最期 人間国宝決定の知らせを受ける前に交通事故死 人間国宝に選出され、鷺娘を披露
市駒・綾乃との関係 関係がずっと続いている(婚姻関係にはない) 関係が断たれ、娘の綾乃は喜久雄を恨んでいた
彰子との関係 結婚し、最期まで連れ添う 喜久雄が彰子に捨てられる
徳次(長崎時代からの喜久雄の付き人) もう一人の主人公級。喜久雄と深い絆で結ばれている 大阪に来ない
母・マツ 実母ではないが重要な存在。喜久雄の品格に影響 映画では冒頭のみの登場
喜久雄と辻村との関係 父を殺した相手が辻村と知らずに世話になり、後に和解 辻村の描写は省かれている
俊介と父・半次郎 出奔した後で半次郎に芸を見せるも
「その程度で戻るな」と言われる
出奔後に2人は会っていない
俊介と春江との子(豊生) 長男が生まれるが、突然死 映画では豊生についての言及なし

ざっくりまとめると、原作での喜久雄は比較的に人間味のある人物として描かれている。

市駒と結婚しなかったのは市駒が結婚を望んでいなかったから。ただ市駒や綾乃とちょくちょく会い、なんとか父としての務めを果たしている。

彰子とは正式に結婚して長年連れ添っている。

対して映画版では喜久雄は芸以外に興味がないように見えた。

市駒たちを捨て、彰子にも愛想を尽かされ、どこか人間的に欠落した人物として描かれている。

原作では、人間味のある喜久雄が最終的に芸術の化身となって死亡したような印象。

逆に映画では、悪魔と契約するような芸狂いが最後に一縷の安寧を見い出したかのような終わり方。

両者ともすごく味わい深かった。

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この記事を書いた人

映画やドラマの考察歴5年。映画好き歴20年。Webライター歴8年。いくつかのメディアでの執筆歴あり。映画やドラマの本質を追求するような解説や考察が書けるように日々精進しています。パーソナルな感想に普遍的な何かが少しでも宿っていれば幸いです。

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