ロードオブザリング力の指輪、リトルマーメイドの実写化、スターウォーズ新三部作などなど、ポリコレ的なキャラクター、つまりマイノリティ側を擁護するためにキャストに黒人やアジア人を入れなければならないという考え方がハリウッドを中心にスタンダードになっている。
今回は、なぜポリコレキャラ・ポリコレに配慮した映画がつまらなくなってしまうのか?自分なりに答えが出たので、それをサクッと解説したい。
そのまえに、映画におけるポリコレのメリットを挙げておこう。もうおわかりだと思うが差別是正である。映画にマイノリティが登場することの差別是正・牽制の効果は絶大で、映画が面白くなくなってもポリコレに配慮する意義はあるかもしれない。トレードオフなのだ。
要は、私は記事で単にポリコレキャラを批判したいのではなく、掘り下げることによってより良い方法を模索できる、という方向性につなげたい。
まえ置きが長くなったので、結論から言おう。
ポリコレキャラが出ている映画がつまらないのは、キャラクターがより記号的に造形されてしまうからだ。
(記号的なキャラ自体に多様な解釈ができるが、ここではお姉さんキャラ=巨乳!みたいな、社会的事実に基づいてないけどなぜかよくあるパターンのことだと考えてもらえればいい。)
ポリコレキャラの問題点をより具体的にいうと、そのキャラクターの本質、根幹的な意味を差別是正とし、それをもとにキャラ作りしてしまう事にある。
するとどうなるか?短髪にピアス、パンキッシュな服装という過剰にレズビアンっぽいレズビアンが生成される。
レズビアンを出すのが悪いわけでなく、レズビアンのテンプレみたいなキャラにとどまってしまっているのが悪いのだ。
LGBTなどの多様性を訴えているが、多様性を訴える以上の有機的な分岐、オリジナリティが見えなければ、ある意味それは没個性だ。
没個性のキャラが登場する映画がおもしろくない確率は当然高い。(没個性であることが個性であるような逆説的なキャラは別)
テンプレ的な個性は物語に収斂される素振りもなく、記号として代替可能なキャラになってしまう。
まとめると、差別是正のメッセージがキャラの固有な要素を覆い隠し、結果、そのキャラである必然性の薄い代替可能な記号的キャラになってしまうのだ。
解決策としては、差別是正の要素を入れることでそのキャラが逆に没個性になっていないか注視すればいい。
それができている作品ももちろんたくさんあり、そういう作品は差別主義者以外からは問題視されないだろう。
逆にそれができない作品が多ければ、映画のおもしろさと差別是正の共倒れ。映画界隈全体が崩れ落ちそうなディズニーワールドみたいになってしまうだろう。